3日目です
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
幕末期、越後長岡藩は新政府軍(官軍)と幕府軍の対立時に中立を決めたものの、薩摩の小役人の勘違いから会津寄り、つまり幕府寄りとされ官軍からの攻撃を受けたのです
この小役人はその後、官軍の将である西郷隆盛からきつく叱責されたのですが、覚悟を決めた長岡藩は抗戦の立場を決定します
最初は大善戦していたものの、時代の流れには勝てず、長岡藩は敗走することとなります。このとき幕軍を散々苦しめる采配を振るっていたのが家老の河井継之助という人物です。その先見性と炯眼、そして愚鈍な主君に殉ずる武士道精神は西郷をして新政府の要職に就けたかったとまで言わしめました。また作家の司馬遼太郎さんは継之助を主人公にした『峠』という小説において「官軍にいたら間違いなく後世でお札に描かれていたであろう傑物」と書いて絶賛しました
最初に書いた句は会津に抜けようとして負傷した継之助が奥只見のある村で詠んだものと伝えられています。継之助はその後間もなく息を引き取りますが、越後から会津に抜ける道の険しさを描いた象徴的な句とも言われています
などと余計な話から始まりましたが、今日の旅は継之助の逆、会津から越後への険しすぎる行程でした。山道好きで数多くの峠越えをしてきた番頭さんですが、まあ、ここは距離からしてレベルが違います。現代にあっても尾瀬国立公園があるために新たなルートが作れないので、高速での新潟回り以外は六十里(江戸期とは計測地点が違うので、八十里ではない)を越えるしかないのです。そしてこの道を車も通れるように整備したのがこの人ですね
賛否両論ありますが、長岡では今でも継之助以上の英雄だそうです
開通記念碑に田中角栄と名前がありますね。2枚目は峠から見た田子倉湖、3枚目は継之助終焉の地の前を流れる只見川
そんなこんなで9時に宿を出て魚沼に着いたのが13時というハードな旅となった3日目です(もっとも奥方様の大好きな道の駅で1時間は費やしました)
今宵の宿はまたまた山奥に入って志賀高原の渓谷の宿。憧れの白濁の硫黄泉です
グタグタでもこの香りを嗅ぐと疲れが取れるような気がするから不思議ですねえ
さあ、明日は長駆富士宮まで。どれだけの道の駅に寄るのかわかりませんが、安全運転で帰ります
今日の一曲は先日訃報が届いたこの人の永遠の名曲で
では今回もご覧いただきありがとうございました